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ツールの聖マルチノ司教   St. Martinus de Tours E.         記念日 11月 11日


 ハンガリーの首都ブダペストの付近聖マルチノ山に立つ修道院は、同国カトリック教の中心ともいうべく、既に創立以来千年の歳月を閲した由緒ある名刹であるが、同国の名は317年その麓なるサバリア市に生まれた聖人にちなんだものに外ならない。
 聖マルチノの父はローマ軍隊の大佐で、北イタリアのパヴィアからハンガリーに転任して、サバリアに勤務する事となったから、息子をローマに出して勉強させた。マルチノはその時始めて教会を訪れ、聖教を知り、大いに感心して早速受洗志願者となったのみならず、エジプトの隠遁者達に憧れて修道生活を望む念が甚だ強かった。しかしまだ洗礼を受けぬ中に父の意志により僅か15歳で軍隊に入り今のフランス地方に駐屯せねばならなくなったのである。
 ローマ軍には聖会の初代からキリスト信者が居り、栄えある殉教者さえ出した位であるから、マルチノはそれらの人々を鑑と仰ぎ、勤務の傍らカトリックの研究を続けた。
 その頃の事である、ある寒い冬の日彼が馬に跨り、アミアン市の郊外に行くと、何処からともなく一人の見窄らしい乞食が現れて憐れみを請うた。もとより情深いマルチノのことであるから、どうして之を見逃そう、早速何か施そうとしたが、生憎金品の持ち合わせがない。で、彼はとっさに思いつき腰の軍刀を抜き放つや否や、自分の着ているマントを真二つに切り、その半分を乞食に与えた。所がその晩見た夢に、そのマントを着け給うたキリストがお現れになり、傍らの天使を顧みて仰せられるには「これはまだ受洗志願者のマルチノが余にくれたものである」とのお言葉であったので、マルチノもさてはあの乞食こそ聖主であったのかと今更のように驚いたという。これはこの聖人の特に名高い逸話である。
 それから間もなく彼は憧れの洗礼を受けると共に軍隊を辞し、ボアチェの司教聖ヒラリオの許を訪ねて下級聖品を授かった。時あたかもマルチノは20歳の血気盛り、わが両親の未信者である事を思うと、もう矢も楯もたまらなくなって、早速彼等を主に導く為に故郷に帰った。素直な母は我が子の説く真理の言葉に悉く感じ入り、同じく天主の愛子の群れに加わったが、頑固な父はなかなか尊い信仰を受け入れようとはしなかった。
 マルチノはそれに力を落とさず他の人々にも布教し、多少の回心者をも出だしたが、アリオ派の異端者達は彼を憎んで散々打擲した末町から追い出してしまった。
 それでマルチノは仕方なく、またヒラリオを頼って行こうと思ったのに、その司教もやはりアリオ教徒の為フランス国外へ追放されていたから、今度はイタリアのミラノに赴き、そこに一修道院を建てようとした。しかしそれも思うに任せずジエノアに対するガリナリアという小さな島に退き、隠遁生活を始めた。
 その中小アジアにいたあのヒラリオ司教が360年イタリアを通ってフランスに帰ると聞いたので、マルチノはローマ市まで出迎えそこから彼に同行し、且つ同司教から土地を貰ってリグジェに修道院を建てた。これこそ西洋で最も古い修道院の1つである。
 そこで一人の求道者が洗礼を受けずに死んだ所、之を憐れんだマルチノが天主に祈ると、たちまちその人は生き返った。その外そういう奇蹟がしばしば彼によって行われたので、その名はいつか天下に喧伝されるに至り、彼の修院創立から11年後ツール市の司教が没するや、同教区の司祭信者達は礼を尽くしてマルチノをその後任に招聘した。謙遜な彼はその栄職に就くを望まず、姿を隠そうとまでしたが、遂にそれが天主の聖旨である事を悟って承諾した。時に彼は54歳であった。
 爾来在職30年、彼はよくその任を辱めなかったが、権勢ある司教の身ながら個人としては修道生活を続ける事を熱く希い、付近のマルムチェに修道院を設け、多くの同志を集め、その師とも父ともなって之が指導に当たった。
 当時フランスの田舎にはなお偶像教が勢力を持っていたので、マルチノは熱烈な説教をしてその不合理を指摘し、以て数多の人々の迷妄を晴らし真理へ導いた。青年時代の大慈悲心は益々その執念深さを加え、霊肉の悩みに苦しむ者の眼から涙を拭い去ってやることは、彼は無上の楽しみとする所であった。実際貧民や囚人のマルチノ司教に救われた者は、どれほどの敵に上るか測り知れないのである。
 さてマルチノはかように聖なる生活を営みつつ80の高齢を迎えたが、ある時その教区の果てなるカンデに赴く途中、病を得て危篤に陥った。弟子達がその枕許に在って涙にくれていると、彼は天を仰いで「主よ、私の生きながらえる事がなお人々にとって必要ならば、老躯に鞭打っても彼等の為に尽くす事を惜しみません」と言った。臨終には悪魔が激しく最後の誘惑を試みたが、マルチノの天主に対する信頼は盤石の如く動かず、衆人の範とするに足る恵まれた死を遂げる事が出来た。
 その訃報一度伝わるや国を挙げて哀悼の意を表した中に、ボアチエ、及びツールの人々は聖人の遺骸を我が町に得んものと切に望んだが、結局彼が永く司教たりしツールに葬られる事となり、その市民は総出で彼の柩を迎え、わけても修士二千人の行列は衆目を引いた。後マルチノはフランスの使徒並びに保護者と崇められるに至り、その声望は全教会にあまねく、カトリックの誇る最も偉大な聖人の一人に数えられている。

教訓

 聖マルチノに就いてはしばしば「内は修道者で外は使徒」と言われたが、彼が外他人の救霊を計るその使徒的事業に大いなる成功を見たのは、内祈祷と克己の修道生活に努めて、一世の師表と仰がれる程徳を積んだ賜物に相違ない。何故なら主も仰せになった通り、兄弟の目から塵を除くには、先ず己の目から梁を除く必要があるからである。故に我等も人の霊魂を救おうと思えば、わが身を修めて他の模範となる覚悟がなければならぬ。